2012年10月15日(月)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8


私たちは、なかなか自分の罪は認めることが難しい。例えば、対人関係で、人を憎んでいる時に、自分が憎むのは、相手のひどい言動と態度のせいだと思う。相手は確かにひどいので、そうとしか見えない。相手に傷つけられたから、憎んでいるのであって、傷つけた相手が悪い。自分は悪くない。自分は被害者だ。

相手がそういう態度に出なければ、自分は憎みはしないので、相手が悪いとしか見えない。しかし、これは自分を正当化して、自分を欺いている。なぜなら、相手がどうであれ、自分は、主の御前に「憎む」という罪を犯しているのだから。それは、自分の罪だ。自分の罪として認め、悔い改める時、平安が戻り、苦い気持ちから解放される。

しかし、認めたくないものであり、それなら、罪はないと言うなら、自分を欺く事になり、真理は私たちのうちに無いと、主は言われる。相手が悪いとしか、見えないかも知れない。しかし、心の内はどうだろう。怒りがあり、裁きがあり、苦々しい思いで、平安が無い。心は苦しく、辛い。

しかし、相手のせいで自分は苦しいのだと、堂々巡りしている。
そのままの気持ち、思いを正直に祈ろう。「相手が悪いとしか思えません」「自分の罪など認められません」「しかし、苦しいです。この事を導いて下さい」と。主は祈りを受け止め、義の道へと導いて下さる。
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憎みたくないので許せるようにと主に明け渡しを祈っていた事がある。祈っても憎しみは去らず、祈り続けている中で、自分が相手を傷つけていた部分もあるとはっきり示された。憎しみだと思っていたのは、罪責の痛みだった事に気づかされ、心から悔い改めることができた。本当の問題は自分の罪だ。