2013年02月11日(月)

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください」詩篇51:6



ある医師が、極めて厳しい状況にある患者から、心の悩みの相談を受けた。その時にその医師は率直に「ごめんなさい。自分にはわかりません。何も言って上げる事ができませんが」と話した。うまくごまかしたり、繕ったり、適当にあしらったりせず、正直に自らの無力を認めた、その医師は誠実だった。

主は常に私たちを助けよう、助けたいと願い、待ち構えておられる。しかし、私たちの態度が問題だ。主の御前に、正直である事を喜ばれる。主に対して正直で、真実で、ありのままでありさえすれば、主はどんな状態でも導いて下さる。どんなに自分で酷い状態だと思っても、正直でさえあれば、主は必ず導かれる。「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」自分の内にあるものを、ありのまま認める事を喜ばれる。

その反対が、まやかしだ。「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわたしにまやかしを言う」自分を繕い、ごまかしてしまう。良い人の仮面をつけて神の前に出る。本音と建前があり、弱さを神の前でも、人の前でも認めない。しかし、ありのままを認めて行く時、御霊の光に照らされる。光は心の隅々まで照らし出し、二面性のない、裏表の無い人格を形造る。私たちはどうだろう。主が贖おうとされるのに、ごまかしを言っているだろうか。
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誰に言えなくとも、主に向かい本音の交わりをしているなら、いつでも光の中に居られる。迷ったら主が導き返して下さることがわかるからだ。歩みは遅くても主に導かれている歩みをしたい。