2013年07月15日(月)

「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」ヨハネ8:36


この世の言う「自由」は、本当の自由でなく、肉の性質が思う、好きなことだ。肉の思い通りであり、自分中心に思う心地良いことだ。放蕩息子は自由なりたくて、父親のもとを去った。何の邪魔もされず、干渉されず、自分の好き放題をして生きる、それが自由だと、はき違えた。しかし、それはわがままであり、放蕩であり、それは自由ではなく、「罪」だ。

責任の伴わない自由などあり得ない。自由には責任が伴う。肉の欲望に誘惑されて行き着く先は死だ。肉で生き、肉を発散させる事は、決して自由なのではなく、罪の奴隷だ。大事な事は、自分の好き放題が自由なのでなく、真理である御言葉に従うことから、自由は来る。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。

御霊の自由は御言葉に基づく。嫌な相手に対し、肉はむしろ憎んでいたい、憎む事が心地良い。しかし、新しい自分は違う。憎む事は不自由だ。平安が失せ、苦しく辛い、悶々状態に陥る。御言葉に従って、主に心を明け渡し、御霊の支配に自分を委ねて行く時、愛する事を選び取る。実は愛する事が自由なのだ。

心は喜びで溢れる。憎む時、心はがんじがらめだが、愛する時、解き放たれ、平安が満ちる。真理に従えば従うほど、私たちは自由にされ、平安にされる。今、心が苦しいなら、御霊の導きに従おう。解き放たれ自由にされる。 
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争うより平和をと主の御言葉に従いたいと心を向けるだけでギクシャクした肉から解放された主の平安が心に満ちる。肉の思い通りにとしか見ない時の、なんと不自由なことか。