2014年01月15日(水)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Tヨハネ3:18


どうしても好きになれない人がいるだろうか。口を開けば悪口を言い、噂話をする人、自慢ばかりする人、他人のあら探しをする人、常に不満と愚痴ざんまいの人・・。好きになるのは無理と思うかも知れない。しかし、聖書には一言も相手を好きになれとは書いていない。「好きになれ」でなく「愛しなさい」と言っている。

好きにならなくとも、愛することはできる。だから、聖書の御言葉は実行できる。聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」だ。感情的な愛ではない。愛するというと感情を連想してしまうが、そうではなく、意志で愛する事だ。感情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール出来る。そう造られている。

愛するとは、日々の生活の中で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事をし、自分の持っているものを分け与えることだ。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。

自分に出来ることをすればよい。現実の人生では、「塩狩峠」のように実際の命を捨てるほどの事は、まず起こらない。困っている目の前の人に、憐れみの心を閉ざさない事、自分に出来ることをする事、それなら出来るのではないだろうか。御霊の示しがあれば、愛する事を実行して行こう。
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感情が伴わなければ偽善のような気がするが、主の後に従って行こうとすれば意志を向けて行くしかない。だからこそ祈りが必要だ。示された愛を実行しよう。