2014年03月14日(金)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・・しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:19 


ある人が、思春期の頃に、学校でいじめに会っていた。しかし、
それを絶対に親に言いたくないし、知られたくなかった。だから一言も言わなかった。それはプライドからだった。いじめられている自分を認める事が余りにも惨めで、絶対に認めたくない。それを知られるなど、更に惨めで耐えられなかった。傷ついている事も認める事も、受け入れる事も出来なかった。

そのため、傷ついていない振りをした。しかし、心は苦しくてたまらなかった。主の御前では、そうであってはならない。主はどんな状態であれ、あるがままの私たちを受け止めて下さる。主の前では、繕う事も、隠す事も必要ない。すでに裸のままの、その惨めな私たちをご存じで、受け入れ愛して下さっている。

プライドゆえに認めたくない事、しかし深く傷ついている事、惨めである事をまず認めよう。それを主にありのまま告げよう。その時、初めて主に受け入れられている事、愛されている事を実感できる。神は常に真実であられる。しかしこちらが正直でなければ、交わりが成り立たない。繕った私は偽りの私であるからだ。主との交わりが何か実感が無いのは、自分が正直ではないからではないだろうか。

ダビデは、命の危険が迫る苦悩の中で、恐怖、不安、思い煩い、惨めさも何もかもを神に告げた。不安でない振りをせず、大丈夫な振りをせず、あるがままの気持ちを率直に正直に主にぶつけ、その結果いつも平安に変えられた。私たちは、プライドが、それを妨げているだろうか。
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認めたくないこと、そういう自分であることを主に告げてみることが光の中にはいることになる。ありのままの自分を自分自身が知るためにも主と正直な交わりの中にいつも身を置いていたい。