2014年05月15日(木)

「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。だれが彼に『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか」Uサムエル16:10 


人は、自らの罪を認め、悔い改める事は、なかなか出来ない。「ごめんなさい」が、一番言いたくない言葉だ。御霊の助けがなければできない。私たちは自分が誤っていると思わないし、認めない。自分の行動を肯定して生きている。間違いを認める事は非常に痛いので、言い訳をし自己正当化する。

又、あいまいにして、神にも、自分にも向き合わない。ダビデが息子の謀反に会い、逃亡する時に、シムイがダビデに石を投げつけて呪った。「血まみれの男、よこしまな者・・今、お前は災いに会うのだ」と。家来たちがシムイに制裁をと言った時、ダビデは、その非難は、罪を犯した自分へのものであるから呪わせよと命じた。

いっさいを主に委ねて「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださる」と言った。ダビデは自分の罪をはっきりと認めた。そして、罪の結果である刈り取りを受け入れている。蒔いたものは、必ず刈り取る。これに例外は無い。私たちは自分の蒔いたものを刈り取る。罪は完全に赦されるが、罪の結果である刈り取りはして行く事になる。非常に痛く辛い。

しかし、主の刈り取りに従って行く事こそ、祝福の道だ。ダビデは悔い改めたので、神との関係が正しかった。それゆえ平安であった。神との関係が正しかったからこそ、自分への非難や攻撃も受け止める事ができた。何よりも神と自分の関係が第一だ。その時、どんな厳しい状況の中でも歩んで行ける。
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罪を犯しても、神様の前に悔い改めれば赦されると、その約束をしっかりと信じてダビデのように神様との関係を最優先して歩もう。赦された恵みと平安があって初めて、次の一歩が踏み出せる。