2014年12月14日(日)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、 父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28



放蕩息子の兄は、家出したまま行方不明の弟が、無事に戻って来た
のだが、決して素直に迎える事は出来なかった。家に近づくと、楽
しげな笑い声が聞こえ、喜びのパーティの様子が見えた。勝手に出
て行き、放蕩三昧をして、戻った弟のためのパーティなど、何とい
う事かと納得が行かない。怒りが湧き上がる。

実の弟に対して「帰って来たあなたの息子」と他人事の冷淡な態度
だ。弟の帰還によって、兄の心の奥に潜んでいた思いがあらわにな
った。怒りで家に入ろうともしない兄に、父親が出て来てなだめた。
すると、自分がいかに忠実で正しいかを訴えた。「長年の間、仕え、
一度も戒めを破った事はない」と。そして正当に報われていないと
の不満。

「子山羊一匹もらった事がない」と。しかし父の心は、「わたしの
ものは全部お前のものだ」だ。実は自分も同じように世の快楽を楽
しみたかった。行動にも、言動にも出さずに抑え込み、外側良いよ
うに装っていたが、内側は不満で一杯だった。本音は弟と同じだっ
た。弟よりもっと重症だったかも知れない。

しかし、父親はそんな兄息子をそのまま受け止め、弟息子と同様に、
全く責めも裁きもしていない。その態度は愛と慈しみに満ちていた。
兄息子を愛し、「おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのも
のは全部お前のものだ」と。私たちはどうだろう。実は不満を抑え
込んでいるだろうか。そのまま主のもとへ行こう。主は愛とあわれ
みで一杯だ。

・・・・・・・・・・・
自分の力で頑張っていると、なかなか主の愛がわからない。不満が
うっ積だ。しかし、弟を裁く兄息子をも責めず裁かず、弟同様、そ
のまま無条件で受け止め、愛して下さっている。御霊は自分の本当
の姿を照らし出して下さる。気づきから祝福が始まる。