2015年05月15日(金)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19




アブラハムが75歳の時、神の示しに従い、カランを出てカナンに移
り住んだ。しかしずっと子供がなく、エリエゼルを相続人にと考え
ていた。その時に、あなた自身から生まれ出る者が、跡継ぎとなる
と告げられた。満天の星を見せられ子孫はこのようになると。

アブラハムは信じ、神はそれを彼の義と認められた。しかしその後、
子供は生まれず、妻サラの提案があり、当時の風習に従い、奴隷ハ
ガルによりイシマエルを得た。86歳であった。それは肉による事で
あり、自分の思いと自分の力であった。その後も、約束はあるが状
況的には何一つ動かない、何も見えない歳月が続いた。厳しい忍耐
の時であった。

それから13年後、99歳の時に、主が彼に再び現われ、子孫を与える
と語られた。そして100歳になって、とうとうイサクを手にした。
アブラハムには常識的にはもう不可能だった。厳しい状況の中で、
見えるところでなく、神ご自身を信じた。望みえない時に望みを抱
いて信じた。見えたなら信仰は必要ない。見えないものを信じるか
ら信仰だ。

信仰とは、厳しい状況を見るのでなく、約束して下さった神を見続
け、目に見える所でなく、御言葉を見続ける事だ。アブラハムには
数々の失敗があった。しかし信仰の父と言われ、神はその「信仰」
を喜ばれた。あなたも今、非常に厳しい状況だろうか。「胎の死ん
でいることを認めても」、尚も神の約束の言葉に立とう。神の約束
は真実だ。
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望み得ない時にこそ、望みを持ち続けていける御約束が私たちには
ある。だから失望せずに生きて、なお死んだ後にも希望がある。
真実な神の約束から目を離さずにいよう。