2015年11月14日(土)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



アブラハムは、神の約束を得てから25年間待ち続けた結果、イサク
を得た。アブラハム100歳、サラ90歳の時だった。気の遠くなるよ
うな忍耐の末だ。しかし、彼らも私たちと同じ人間であり、弱さが
あり、数々の失敗があった。時をを待ちきれずに、肉の思いで動き、
肉の手段を用い、イシマエルを産み出してしまった。

だが、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。イサクを献
げるという、大きな試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。
驚くべきアブラハムの信仰だ。その彼に神は「あなたが、このこと
をなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあな
たを大いに祝福し」と神から大きな祝福を受けた。

しかし、非常に厳しい試みだ。25年も待った目に入れても痛くない
最愛の我が子だ。そしてこのイサクから子孫が増え広がるはずだ。
この事はどうなるのか。イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」
と問うた時に、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事に
おいて神を心底信頼した。しかしいけには無く、イサクをいけにえ
とし、刀を振り下ろす瞬間、阻止された。

そして、そこに羊があった。これは彼も知らなかった事だ。私たち
も一歩先は全く見えず、明日の事も知らない。しかし、神は知っ
ておられる。一歩一歩この神に信頼し委ねて歩む時、一生涯の間、
「主の山の上に備え」を経験して行く。

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全く先の見えない中で、御言葉を頼りに、主を信じて、一歩を踏み
出す時に、「主の山の上に備えあり」を経験する。踏み出さなけれ
ば、決して主を知ることはない。見えない、真っ暗なな中を一歩踏
み出すのは勇気が要るが、その信仰により、豊かに祝される。