2016年01月15日(金)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」詩篇119:67




信仰人生にも、様々な問題が起きる。問題や悩みは、誰しもいや
なものだ。できるだけ、痛い目には会いたくない。できれば、避
けて通りたいし、出来る限り順風満帆であって欲しい。平穏な日
々が、私たちの心からの望みだ。しかし、御言葉はそう言わない。
正反対のことを言う。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、
あなたのことばを守ります」「苦しみに会ったことは、私にとっ
てしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。
一見、苦しみに会うと、あやまちを犯すふうに思う。だから、平
穏でいたい。しかし、逆で、苦しみに会う前は、あやまちを犯し
たと言っている。

つまり、苦しみを通ったからこそ、あやまちから守られ、御言葉
に従い、御言葉を守る者とされていると。そして、苦しみに会っ
たことが幸せだったと言っている。私たちは、苦しみに会うこと
は、不幸だと思っている。しかし、信仰人生で一番神に近かった
時は?との問いに、多くの人が「試練だった時」「苦しかった時」
と答える。あんなに主に近い時は無かったと。

これは苦しみにより、主に頼り、拠りすがる者とされるからだ。
真剣に、本気で、主に向かい、切に御心を問い、自らの本当の姿
を照らされる。普段順境の時には、決して知る事のない、自分の
不信仰や、エゴに気づかされる。悔い改めて、新たにされる。そ
して、主との交わりが深められて行く。これこそが一番の幸いだ。
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試練や苦労を極力避けられたら、世の人はラッキーだと言うが、
試練は神からのものと受け取るなら、辛くても不満はない。共に
おられる主との濃い交わりを日々経験するからだ。