2017年05月15日(月) 「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」マルコ12:44
「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」マルコ12:44
1人の貧しいやもめが2レプタを献金した。僅かな額であったが、 主はその事を大きく評価された。金持ちが多額の献金をしていた中 で、そっと献げたこのやもめに目を留められた。それは彼女の生活 費のすべてだった。主はそれを重く受け止められた。ここで言われ ている事は何なのだろう。やもめのように、全生活費を献げよと言 うことなのか。 それが信仰的で、霊的だということなのだろうか。そうではなく、 大事な事は、彼女の心の目が見えるところでなく、主に向いていた という事だ。目の前の生活や、物や、将来の事、将来の必要ではな く、ただただ主に向いていた。所有欲から自由にされて、自分のす べてを主に明け渡し、委ねきっていた。 「人が主に向くなら、おおいは取り除かれ」「主の御霊のあるとこ ろには自由がある」神と富に兼ね仕える事はできない。彼女の心は 富にではなく、神にあり、神に自分自身と将来を任せた。投げ入れ たのは、彼女の所有欲、自我、いのちそのものであり、神にすべて を明け渡したのだった。それが彼女の信仰であった。 自分で自分を守ろうとせず、明日の必要は与えられると信じた。そ して、人にどう見られるかもなく、自由であり、ただ主だけを意識 していた。主はその心をしっかり受け止めて下さった。同様に主は 私たちの献げものも、その心もしっかりと受け取って下さっている。 主は、今日も私たちの心を見ておられる。 --------------- 経済的なことや人間関係、様々なことに心配りをしながら生きてい る。その中の一部を主にお任せして残りは自分で格闘していると示 される。全てを主にお任せし支えられ、こころ広やかに歩みたい。