2017年08月15日(火)

「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」ルカ17:18 


いやされた十人のらい病人が出て来る。当時らい病は、不治の病で、
人々から隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱えなければなら
なかった。社会からはのけ者にされ、何の希望もなく、絶望的な人
生だったろう。主がらい病をいやされた噂を耳にして、彼らは主に
すがった。らい病人は、人前に出られない。彼らは、遠く離れた所
から声を張り上げて「あわれんで下さい」と主に求めた。

遠くから力の限りの大声で、必死に願った。答えてもらえない相手
なら、求めはしない。その切なる求めに、主は答え「行きなさい。
自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をするのは祭司だった。
しかしその時は、まだ直っていない。らい病のままだ。らい病のま
まで、言われた通りに、祭司のもとへ出発する。すると主の言葉を
信じて、行動した時に、途中でらい病がいやされた。

普通なら、いやされてから、祭司のもとへ行くが、彼らはみ言葉を
受け取るや、出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰に答えられ
て、途中できよめられた。そして十人の内、一人の異邦人だけが、
主に感謝するために戻って来た。九人はユダヤ人だ。いやしが叶え
ば、本音のところもう主に用はなかった。いやしだけが目的だった。

それを得るや、大喜びで、主のもとを去った。しかしサマリヤ人は、
主のもとに戻り、御前にひれ伏した。その時、いやし主との関係に
立ち返ることができた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信
仰が、あなたを直したのです」この信仰が彼を救った。感謝する時、
主をあがめることになる。
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病が癒されればそれは良いが、その途中に主を認めて感謝していけ
る人生こそ幸いだ。結果が出ていない途中であっても主は共にいて
くださっている。迷いや苦しみの中でもそこに立っていられる。