2021年10月13日(水)

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」ピリピ2;4



ある働き人が、若い神学生時代に、友人の学生たちとの間で議論が
持ち上がり、それがどんどん高じて言い争いになってしまった。何
だか空気悪く、ぎくしゃくして終わった。その後、何となく口もき
かない状態になっていた。皆が、それぞれ自分は正しいと思ってい
る。自分も自身の考えが真っ向から否定され、腹が立って仕方がな
い。

いら立ちや何だか赦せない思いが出て来る。悶々となるが、自分は
間違っていないと思うし、自分は正しいと思っている。相手が間違
っていて、自分は傷つけられた。その思いで一杯で、怒りが収まら
なかった。そんな中、メッセージ当番が回って来た。こんな苦々し
い思いの状態で、メッセージの準備など出来るはずもない。

しかしながら腹が立って、赦せない。段々、せっぱ詰まってきて、
悶々だ。とうとうどうしようもなく、祈ろうと主の御前に出た。
ハンナのごとく、嫌な思い、いら立ち、敵対心・・ことごとくあり
のまま告げた。心を吐き出し、じっと主の御前にいた。長い時間が
過ぎたが、その時に、主の十字架が自分の前に、くっきりと浮かん
だ。罪の無いお方が、黙って罪を負っておられる。

自分は、相手の事など全く無く、愛も何も無いではないか。主も、
御言葉も吹っ飛んで、ただただ「自分」「自分」。自己主張、自己
憐憫、自己正当化、自分の気持ち。自分しか無い。十字架の主を見
つつ、涙が溢れ、心から悔い改めた。「彼らは何をしているのか自
分でわからないのです」まさにそのまま自分であった。

悶々がきれいに消えて平安になった。仲間たちに詫びた。すると相
手も謝ってくれて、和解ができた。何をしているのかわからず、道
をそれる時にも、主は正しく導き返して下さる。悶々状態の時には、
そのままにしていないで、十字架の主のもとへ行こう。
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相手にも非があるのに、とそこに留まってしまう者だ。相手のこと
を顧みることなど自分には出来ない。主に行き、主に解決を求めよ
う。主が喜ばれる方へと向かいたい。