2022年05月15日(日)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、 ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」 ヨハネ2:11

主は、カナの結婚式で、ぶどう酒が切れた。マリヤはすぐ主に助けを求めた。主は答え、水をぶどう酒に変える奇跡をされた。その時、手伝い達に、大きな水がめ6ヶに、水を汲ませた。彼らは、ぶどう酒が必要なのに、なぜ水なのか。何の意味があるのか、わからないままだったろう。

だが、主が言われた通りに水を汲んだ。何とその水が、最高のぶど
う酒に変えられた。世話役や結婚式の出席者たちは、何もわからな
いまま、知らないまま最高級のぶどう酒を味わい、楽しんだ。しか
しそこに神を認める事も、神を知る事も無い。又、神への感謝も無
い。

しかし弟子たちは違った。それらを見ていた弟子たちは、それが主
のみわざだと知ったので、「それで弟子たちはイエスを信じた」。
主は日々、私たちの日常で、みわざをされ、働いておられる。だが
そこに主を認めなければ、それは偶然、ラッキーで、たまたまそう
なったのであり、運が良かっただけで、そこに主を新たに知る喜び
も、感動も、感謝する事も無い。

私たちはどうだろう。日々、主のご愛や配慮を認める事なく、一つ
一つの出来事を当たり前、偶然として、流していれば、世話役や
人々と同じだ。今日の日は、主から来ていて、家族が、仕事が与え
られていて、環境も主の御手の中だ。当たり前ではなく、主による
ものだ。そこに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのよ
うに、主を認め、感謝が溢れ、更に主を信頼して行くことになる。

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焦点がどこにあるだろう。どん事があろうと、主に焦点があれば、
問題は問題でない。見えるところの悩みや、自分や状況に焦点があ
れば、動揺と混乱、恐れと不安しかない。ずっと主を見ていた弟子
たちにならい、言われる通りに水を汲んだ手伝いにならいたい