2022年09月14日(水) 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれん でやるべきではないか」マタイ18:33
「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれん でやるべきではないか」マタイ18:33
王が、Aに6000億を貸していた。清算の時が来たが、Aは返済がで きず、ひたすら懇願するので、王はかわいそうに思い、赦してやっ た。王は、Aの6000億の借金を全額免除した。そのAが出て行き、 Bに出会った。AはBに100万貸していた。 ところがBも100万を返済できず、Aに懇願した。返すから、もう 少し待ってくれと。しかしAは決して赦さず、Bを牢に投げ入れ た。心を痛めた仲間は、事の次第を王に報告した。すると王は怒 り、Aを借金を全額返すまで、投獄した。せっかく免除された莫大 な借金が、自分に負債のある者を赦さなかったばかりに、また戻っ て来た。 免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、その負債 を負う事になるのだ。何というあわれみだろう。自分は測り知れな い大きなあわれみを受けているのに、他者をあわれむ事ができな い。これが人間の姿であり、罪の性質だ。自分は主に溢れるばかり に赦されているのに、人を赦す事ができない。 二つの道がある。決して自分を変えないで、誰でも皆そうだと、恨 みと憎しみを持ったまま生きて行くか。そうではなく、自分が変え られて、主に喜ばれる道、栄光が現わされる道へ向かうか。今、 岐路にいるだろうか。自分にはできない。自分の力では不可能だ。 しかし、主に不可能は一つも無い。主には出来る。主は、赦す力を 与えて下さる。このままでいるか、信仰に前進するのか。自らの選 択にかかっている。ありのままを主に祈って行こう。そうする時、 主が働き、導き、変えて行って下さる。 ------------ 確かな赦しを受け取っていながら、自分の怒りに流されてしまいそ うなとき、主に明け渡していこう。どれ程の罪を赦されているか。 主の喜ばれる道を進みたい。