2024年05月15日(水)

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。 彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。」使徒14:8



ルステラに、生まれつき足なえの男性がいた。生まれて一度も歩い
た事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度
そこに座っていて、じっと聞いていた。彼は生まれつき歩けず、自
分の足に関して、何もどうする事もできなかった。どうやっても歩
く事は不可能だ。完全無力の状態だった。

自分で何もする事ができない。だからこそ、「自分の足で、まっす
ぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがる事ができた。もし自分
に力があれば、さっさと何でも自分でしていたであろう。彼にはこ
の言葉しかなかった。すべての望みを託して信じて賭けた。この言
葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そうできた。

その信仰に、主の力が働き、奇跡が起きた。かつて、ただの一度も
歩いた事のない彼が、飛び上がり、歩き出した。私たちも自らの徹
底無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうに
も出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。信
仰を働かせる事ができる。自分の力、方法に頼り、自分に頼ってい
る限り、主への信仰は無い。

信仰半分、自分の力半分というのは有り得ない。幾ら御言葉があっ
ても、肉は必ず自分の力、方法でやって行く。そこに信仰の入る余
地はない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明け渡して行く
事だ。それゆえ、自らの無力を知る事が、大きな祝福であり、幸い
だ。無力に落ち込む事など全く無い。むしろ恵みだ。
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自分の無知、無力を知らされる時は、最も苦しくどん底の時だ。
何もないから主のひかりを求めていける。主を信じて立っていこ
う。幾度も経験する取り扱いを恵みと受け止めたい。