2025年02月12日(水) 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださ いました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷 のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださ いました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷 のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1
アブラハムとサラは、主から子どもを与えるとの、約束を受けてい た。だが長い間、何の兆候も無いため、サラは、奴隷により子ども を得るよう夫に提案した。夫は妻からの提案のため、奴隷ハガルに よりイシマエルを得た。その後に実子イサクが与えられた。すると イシマエルがイサクをからかった。サラはその子を追い出すよう、 夫に迫った。 彼はイシマエルも実子であり、非常に悩んだが、主によりハガルと 子を出すよう示された。奴隷の子どもは、相続人になってはいけな い。自身から生まれて来る者が跡を継がねばならないと。奴隷でな く、子どもが跡を継ぐ。私たちの信仰生活は、どうだろう。決して 奴隷ではない。神の子どもであり、自由の女の子だと。 イシマエルは肉を表わし、奴隷には自由は全く無い。すべてが「ね ばならない」の世界だ。良い行ないによって、天国を勝ち取り、主 の愛顧を勝ち取る。自分の力だ。私たちはどうだろう。聖書を読ま ねばならない、礼拝出席せねばならない、人を愛さねばならない・・ 奴隷であり、強いられた辛い窮屈な信仰生活だろうか。 そうでなく、私たちは約束の子であり、自由、恵みの中に置かれて いる。主の十字架ゆえに、主に愛されて嬉しいから、愛する方の御 声を聞きたくて、聖書を読む。礼拝する。もし、そう出来なかった 時も、主の愛は全く変わらずに、受け入れられ、愛されている。だ からこそ、とんな時も、心からの安心感を持って、主のもとに行け る。 --------------- 自分の内にも来る、ねばならないに気づきたい。主が十字架の死に よって代価を払って自由にしてくださった。その主のご愛を信じる 信仰で義とされている。主のご愛に自由に応答していきたい。