2025年06月14日(土)

「ヨハネが来て、食べても飲みもしないと、人々は『あれは悪 霊につかれているのだ』と言い・・」マタイ11:18


私たちは、人を裁いてしまう弱さを持っている。だが、人を裁く
のは、相手が、自分の思い通りでないからだと、言われている。
自分の思いがあり、それに合わないので、相手を非難する。
それは自己中心によるものだ。主は、当時の人々を、遊びを
する子どもたちに例えられた。子どもたちは、他の子たちに一
緒に遊ぼうと呼びかけた。

「笛を吹いてやっても、踊らない」まず「結婚式」の遊びをし、楽
しげに笛を吹いたが、誰も踊らず相手にしなかった。それで次
に弔いの歌を歌って、「葬式」の遊びをした。これも、誰も悲しま
ず、乗ってこなかった。同じように人々は、バプテスマのヨハネ
が、荒野でいなごと野蜜で生活していると「悪霊につかれている」
と言い、そして主が取税人や遊女の友となり、罪人と宴会の席
にいると、「食いしんぼうの大酒飲み」、「罪人の仲間」だと言った。

つまりは、何をしても非難した。自分の思いがあるばかりで、そ
れに合わないから、批判し、自分の正しさを誇っていた。相手を
公正に見て、受け入れようとの思いなど全く無かった。その時に
主は、知恵が正しいかどうかは、その行ないによって証明される、
行ないを見ればわかると。

どう行なったとしても、人は悪口を言い、何やかや言う。それをい
ちいち気にすることはない。私たちは、主の御心に従うことによっ
て、知恵の正しさがよくわかる。身をもって経験して行く。そして
ますます主の素晴らしさがわかって行く。そして人々に主の正しさ
を証明して行く。

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人の目を気にしていたら、どこに向かうかわからない。人の言葉
にいちいち心を留めるな、とも言われている。人目を気にする根
深い肉があるが、主の御心を行なって行く時に守られる。御心
を祈り求め、従えるよう祈ろう。