2004年10月14日(木)

「もしもわたしの心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)


誰しも祈りの生活が導かれたいし、祝福されたいと願う。真に祈りの生活をしたいと思うなら、その一番の妨げは「罪」だ。生活の中に罪が入った途端祈れなくなる。外側の生活は人知れず出来るかもしれない。しかし、祈りの生活は破綻する。祈れなくなるのだ。祈りの生活に進めば進むほど聖くされる事を求めるのはそのためだ。祈りと聖い生活は正比例する。どんな罪もあいまいにしてはならない。神の御前に差し出し認めるなら赦される。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯した時、主に告白する前は、一日中うめいて骨々は疲れ果てて、骨髄は日でりで渇ききったと言った。苦しい煩悶の中にいた。告白した時赦された。祈りは罪は最大の妨害。罪を捨てよ。
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ストレートに祈れない時には、よく自分自身を見つめてみよう。御前に差し出せない罪がないか。告白するだけで赦され、もとの交わりに戻れる。そして今度は神様に拠り頼むという事を学べばいい。