2005年10月15日(土)

「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか」(ルカ11:11)

“求めよ、そうすれば与えられる”は有名だ。
しかし、祈りは欲望充足マシンではない。何
でもかんでも与えられるのではない。私達は
自分の祈りをわかっていない。目先しか見え
ないからだ。自分では最善!と思っても神か
ら見ればふさわしくない。親子関係の通りだ。
親は子供が願うものを何でも与えはしない。
その子の事をよく考えて、必要か、時期は適
切か、その影響は、と様々な事を配慮の上与
える。今それを与えると高慢になり滅びる、
神に頼らなくなる、ますます肉欲に走る・・
色々な理由で神は差し控えられる。しかし、
その「ノー」は私達にとって最善であり、実
は大きく守られる事になるのだ。私の願い通
りではないが、神の良しとされる最善の答え
を下さるのだ。それが神の愛だ。なんと感謝
で安心な事か。
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肉の思いは強く、これが絶対だと思うが、与え
られなかった事が、どんなに最善であったかが
後にわかる。深く学べる。神の思いと人の思いは
違う。人生決して自分の思い通りでないが、主の
み旨が成っている。ノーは神のご愛。後にすべて
が感謝だとわかる。