2007年07月15日(日)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16                


主によっておおいはすでに取り除かれてい
る。ところが、私達サイドにおおいがあっ
て遮断してしまうのだ。何がおおいとなる
のか。自分の思い、考え、世の価値観がお
おいとなり神の心が見えない。自分の思い
があるばかりだ。「わたしの思いは、あな
たがたの思いと異なり」のように、神の思
いは私達の思いと大きく違う。天と地ほど
に違うので、肉の思いの方がしっくりきて、
一見まともに、常識的に見えてしまうのだ。
当時の人々には、パリサイ人の方が常識的
でまともに見えたろう。「天から下って来
たパン」「わたしを食べる者は生きる」だ
の「アブラハムがわたしの日を見て喜んだ」
とは霊の世界であり、頭では理解不能だ。
心の一新によって変えられ、思いが新たに
される事が必要だ。又、自己中心はおおい
となる。自分中心であるため神が見えない。
天動説で、自分が中心で周囲が回っていて、
どこまでも自分が回そうとする。それがお
おいとなる。又、主から目を離し、自分と
状況だけを見ると、おおいとなって落ち込
んで行く。自己憐憫の殻に真っ逆さまだ。
主とあなたの間に、おおいとなっているも
のは何か。御霊に探って頂こう。主に向い
て、明け渡して行く時、そのおおいが取り
除かれる。御霊の働きだ。       
・・・・・・・・・・・
主には何の問題も無いが、こちらサイドに
おおいがある。神がよく見えない、自分の
おおいは何だろう。妨げを示されて明け
渡して行くなら、おおいが除かれてはっき
りと主が見える。