2007年11月14日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17

ある人が祈りの要請を受けた。しかし、
それはどうしても受け入れられない相手
の事であった。普段からよく思っていな
かった。様々問題が起きているが、それ
は自業自得ではないのか、自らが引き起
こしている問題ではないのか、責めて裁
く心があり、又、裁く自分が嫌で、辛く、
関わりたくなかった。祈りの要請が来た
が、心がそって行かず祈れなかった。ど
うしても祈れない。すると、心にとがめ
も来るし、そんな自分に悶々とした。自
分は祈れない、祈りたくない。しかし祈
りの要請が来ていて、大変な状況にある。
それで、とにかく、この自分をこのまま
神に委ねる決心をした。神の御前に出て、
自分の心を正直に申し上げた「私には祈
れません。助けて下さい」すると不思議
な事が起きた。自分がその人の立場だっ
たらどうだろう、との思いが臨んだ。絶
対に自分には耐えられないと思った。そ
う思った時、涙が溢れ出て、知らぬ間に
その人のために心注ぎ出し真剣に祈って
いたのだ。自分では無かった。まさに御
霊だった。すぐ後、その難問題が見事解
決との連絡が入った。皆の祈りと共に、
彼女の祈りは用いられた。主はいけにえ
を喜ばれない。主が喜ばれるのは砕かれ
たたましい、できませんと自らの無力を
認める態度だ。
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主は何も求めておられない。主が求めて
おられるのは、「自分にはできません。
助けて下さい」これだけだ。いつも奇跡
を見たのは、自らの無力を心底認めた
時だった。