2008年03月15日(土)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

神を一生懸命求めてるが、出会ってい
る実感が無い。祈ってるが、聞かれて
いる気がしない、という人々がいる。
求めているのに、どうして?と。求め
よ、そうすれば与えられると、求める
者には答えて下さるお方ではないのか
と。求めているが、神がどうしてもわ
からないという時、自分に都合の良い
神を求めている場合がある。心地の良
い、気持ちの良い神を求めている。自
分のイメージ通りの、自分の思い通り
の神を求めていて、そんな神は存在し
ないので、どう求めてもわかりようが
ない。神がわからないという時、的が
ずれていないか。神を求めているので
はなくて、自分に都合の良い偶像を求
めていたりする。それは性善説的な、
ただ愛してだけくれる神だ。癒しを求
めるばかりで「愛されている」だけが
すべてだ。罪のさばきや、生まれなが
ら御怒りを受けるべき、自らの真の状
態、訓練や鍛錬、試練、苦しみなどは
飛んでいる。「だれでも神のみこころ
を行なおうと願うなら、その人には・・
わかる」神が真に、わかると言われて
いる。もし、神を知りたいと願うなら
ば、御心を求めて行くことだ。自分を
捨て、十字架を負って行く時に、神が
わかる。自分中心に都合の良い神を求
めるのではなく、自分を捨てる時、明
け渡して行く時、必ず神がわかる。
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自分のための神だと、なかなかわから
ない。今まで神を新しく知って行った
のは、目の前の一歩に信仰もって従っ
た時だった。それは痛かったり、プラ
イドに挑んで来たりするが、必ず大き
な喜びを刈り取る。従おう。