2024年12月05日(木)

「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。 そこでモーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会が集まって いる前でひれ伏した」民数記14:5



モーセは、カナンに12人の斥候を遣わした。そしてその報告を聞い
た。10人は、民は強く、巨人たちもいて、城壁は大きい。とても攻
め上れないと、非常に恐れた。それを聞いた民は恐怖で怯え、ひど
い不信仰に陥った。その不信仰は全体に伝染した。主の約束された
地にかかわらず、エジプトにいて、エジプトで死んでいたらよかっ
たと、恐怖と不満で一杯で、皆でエジプトに帰ろうとまで言い出し
た。

更にヨシュアとカレブを殺そうと言い出す。主は「いつまで信じな
いのか、わたしを侮るのか」と。つぶやいた民は、カナンに入れず、
荒野で滅びると言われた。するとそれを聞いた民は、今度は「罪を
犯した。とにかく言われた所へ行こう」とカナンへ上って行く。モ
ーセは、主が共におられないから、行くなと止めた。

しかし上って行き、ものの見事に敗北する。行けと言われれば行か
ず、行くなと言われれば行く。自分の思いがあるばかりだ。民の姿
は自らの姿だろうか。主に従うために「時」がある。時を逸しては、
手遅れだ。後から従おうとしても、もう時遅しだ。民は斥候が戻っ
て来た時に、自分の思いでなく、信仰に立つべきであった。

主の約束に立ち、カナンへ入って行くべきだった。頑なにそうせず
に後悔するが、時遅かった。主の御声は愛だ。愛による語りかけだ。
主の愛に応答し従って行く時、更に主の愛を知る。今、示しがある
なら御声に従おう。従う時、更に神の愛を経験して行く。
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状況だけを見て、ぱっと決めてしまう。時々の感情で御言葉を忘れ、
右に左に動揺してしまう。一歩、一歩を主に頼り確信の中を歩みた
い。祈り御声に従おう。