2009年03月14日(土)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16

                          
主によっておおいはすでに取り除かれている。問題無い。ところが、私達の側に
おおいがあり遮断してしまうのだ。

何がおおいとなるのか。自分の思い、世の価値観がおおいとなり、神の心が見え
ない。ヴェールがかかっているようだ。自分の思いがあるばかりだ。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」のように、神の思いは私達の思
いとかなり違う。天と地ほどに違うので、肉の思いの方がしっくりきて、一見ま
ともに、常識的に見えてしまう。

当時の人々には、主より、パリサイ人の方が常識的でまともに見えたろう。「わ
たしは天から下って来たパン」「わたしを食べる者は生きる」などと、頭では理
解不能だ。わけがわからない。「50才にならぬあなたが、アブラハムを見たの
か」とユダヤ人が言ったように。常識では判断つかない。だから肉がまともに見
える。

心の一新によって変えられ、思いが新たにされる事が必要だ。

又、自己中心はおおいとなる。自分中心なため神が見えない。天動説で、自分が
中心で周囲が回っているし、どこまでも自分が回そうとする。それがおおいとな
る。
又、主から目を離し、自分と状況だけを見ると、おおいとなり落ち込んで行く。
自己憐憫の殻に真っ逆さまだ。

主とあなたの間に、おおいとなっているものは何か。御霊に探って頂こう。主に
向いて、明け渡して行く時、そのおおいが取り除かれる。御霊の働きだ。
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自分は、何がおおいとなっているのだろう。何か、もやがかかっているような状
態なら、御霊によく心を探って頂こう。自分の思い、欲、思い煩い・・示された
ものを明け渡して行こう。まず主に向いて行こう。