2009年12月14日(月)

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ローマ12:1


あなたも経験するだろうか。神の御心がなりますようにと祈りつつも、自分の思いと自分の願いで一杯で、建前は神の御心だが、本音では全くそうではなかったりする。

しかし、反抗する気など全くなく、一応は御心がなりますようにと思っているので、そう思っているだけに、自分でも気づかない。自分では真剣に祈っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事の意味もわかっておらず、神を信頼もしていなかったとわかる。

メッセージで、学びで、神に委ねる事の大切さを、しょっ中教えられるので、それが良い事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いと自分の願望をしっかり握って放さない。

しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、実際そうだと勘違いする。反抗したり、逆らっていれば、明らかにわかるが、逆らっているつもりはないので、返ってわからない。気づかない。何かが漠然とし、混沌としているのだ。

心に確信と満たしが無い。平安が無い。それで自分でも、何かが違うと薄々感じている。この問題点は、献げていないところにある。心の底を御霊で照らされる時に、献げていない自分を見い出す。

この事を認めることが前進のためのまず一歩だ。握っているものは何だろう。放す時に深い平安と喜びを経験する。
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もともと温和で親切で、罪も憎んでいる。自分は光の中にいると思い込んでるだけなら悲しい。御言葉を礼拝メッセージを自分の事として聞いて行こう。悔い改めや変わりたい、献げたい祈りを自分のものとしよう