2010年04月13日(火)

「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい」ルカ9:23



「自分の何かを」捨て、ではなくて、「自分を」捨てて、と言われている。私たちの自我を日々十字架につけて、ついて行く必要がある。私たちはキリストにあって、義人であると、神は見て下さっている。

すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。古い人はすでに十字架につけられた。しかし、同時に、天国に行くまで、自分の内に肉があるので、日々に自分を捨てて、歩むことになる。

泥酔やギャンブルや、妬みや、憎しみ等はストレートでありよくわかる。しかし、醜い自我だけでなく、自分の心を占領し偶像になっているのは、良いものかも知れない。サウルは「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないもの」を聖絶した。私たちもどうだろう。

最も良いものを取っておき、どうでもよいものだけを捨てているだろうか。時間や労力を献げて懸命に奉仕するが、実は、自分を喜ばせる自己満足、誇りやプライド、つまり自我がますます肥え太っているかも知れない。

信仰も強いが自我も強いということになる。「山を動かすほどの完全は信仰」を持っていても、自分の栄光のためということになる。御言葉通り、自分を捨てなければ、結局、無に帰してしまう。

御霊は、具体的に自分に死ぬことを、それは譲る事であったり、謝罪する事であったり、批判を受け止める事であったり、指し示して下さる。従って行こう。
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手に負えない大きな出来事の中だけでなく、日々負ってついて来なさいと言われる主の言葉を心に留めていたい。日常の生活の中で自分に死ねない本当の自分と向き合い、与えられない、譲れないと主に認め、主について行きたい。