2010年05月14日(金)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



家畜小屋で誕生された主イエスが、私たちの肉眼で見える形で現れて下さった神だ。本来、肉眼で見えない神を、見えるようにして下さった。弟子達は、その主を目の当たりに見、主と語り、触れた。しかし、十字架で死に、よみがえられた主は、エマオ途上の弟子達に、今度は「御言葉」によりご自身を現された。

肉眼によってでなく、御言葉を解き明かし、聞かせる事によってだった。エマオの弟子達はどこが問題だったのか。彼らは、主こそ救い主だと思っていたが、辱めの十字架で、惨めな姿で無残に死んでしまった主に、失望落胆、絶望していた。

彼らは、人間的な思いでしか主を見ていなかった。ローマ帝国をくつがえして、神の国を建設され、長らく待ち望んだ、みくにがこの地上に実現するはずと。その王となる方が、あっけなく死んでしまった。それも極悪人がかかる無惨な十字架刑で。彼らにとれば、あり得ない、信じられない現実だった。

同様に私達も、自分を幸せにしてくれる、自分の願いを叶えて貰うための信仰なら、遅かれ早かれ必ずつまずく。主は道すがら御言葉を解き明かされた。御言葉に基づいた信仰だ。弟子達は、自分の思い、ひとりよがりの信仰理解が砕かれ、聖書に基づく信仰へと導かれて行った。自分中心の、自分に都合の良い信仰でな
く、御言葉に立った時に心が熱くなり、燃やされ、変えられた。
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自分の思いを軸にするなら都合よく変わり状況にすぐ翻弄される。思いに来る攻撃から守ってくれるのは御言葉だ。失望や落胆していた気持ちがまた燃やされるのは、主が教え語って下さるからだ。御言葉に立とう。