2010年06月13日(日)

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31

「慰めよ、慰めよ」で始まるこの章は、バビロンでの捕囚生活に苦しんでいる民
への解放を告げる。咎は償われ、二倍の報いを受けると。民が帰還してくるから、
「主の道を整えよ」と。

しかし、イザヤは、諦めと虚無、心に穴があいたようなこの状況で、何を言う事
があろうかと。だが、主は、諦めていた民への「良い知らせ」9’大いなる希望
であり、福音を告げられる。

国土を、神殿を、家を失い、何もかもが崩れ去ったイスラエル。その中で望みを
失い「私の神に見過ごしにされている」、見捨てられたと苦しんだ。

しかし、イザヤは「あなたは知らないのか・・主は永遠の神、地の果てまで創造
された方」永遠であり、全能者であり、同時に子羊をふところに抱かれる愛と慈
しみの主に、目を向けさせる。

私たちも苦しい事があると、「どうして?なぜ?」と、目の前の苦しみに飲み込
まれてしまい、神に見捨てられたと思う。なぜ、来て下さらないのか、祈りに答
えられないのか。

頭では、神は全知全能で、とわかっているのだが、苦しい現実に、神は本当に見
て下さっているのかと思う。だが「疲れた者に新しい力を」下さる。その大切な
鍵は「主を待ち望む」ことだと。

すぐに結果が出なくても、あなたのためにご計画を持たれ、あなたへの最善をし
て下さる主を、待ち続けることだ。必ず答えを下さる。

私達の本当の力は、現状がいかに悲惨であっても、目前の状況や自分を見ている
目が神に向き、天地創造され、全主権を持たれ、全能であり、愛であるお方に、
霊の目が、信仰の目が開かれて行くことから来る。

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神は「慰め」を語って下さった。いつも、私たちを慰めて下さっている。どんな
に失敗しても、足らなくても、主から慰めの御声が聞こえて来る。何があっても、
豊かな赦しがあり、いやしがある。それゆえ、どんな時も新たにされ、希望があ
る。