2010年08月13日(金)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩篇139:1


人から言葉を発せられ、自分の反応を考える時、もし、知らない外国語で、罵倒され、批判され、きつい言葉を言われたらどうだろう。その外国語がわかる人は別だが、普通、意味がわからず、全く何も感じないだろう。

怒りが生じるだろうか?生じようがない。という事は、内容は全く同じであり、母国語で発せられた場合は、自分が反応するから、怒りが生じるという事になる。結局、相手の問題でなく、あくまでも、反応している自分の問題ということになる。

ピリピリする、傷つく、腹を立てる・・なぜその言葉に、自分の心が反応するのか、心の内にあるものを見極めてみよう。
心に潜む何かに触れるから反応している。プライドに触れるのか、認めたくない劣等感に触れるのか、知られたくない弱さに触れて来るのか、何かに反応している。

その誰にも見られたくない、自分の本当の姿を、御霊の光に出して行く時、解放され、自由にされる。そのつらい心、イライラ、怒り、不安が、全き平安と安堵に代えられる。自らの弱さ、醜さを認める時に初めて、本音の自分が、ありのまま受け入れられている事がわかる。

神が受け入れて下さっているなら、何を恐れよう。「全き愛は恐れを締め出します」自分を隠すのは、人を恐れているからだ。こんな自分が、受けれられるはずがない。しかし、神に完全に愛されている事を知る時、恐れから自由にされる。反応する自分の心に目を留めてみよう。 
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自分が受け入れられない本当の自分を神様はいろんな方法で気づかせて下さる。それは、すでに神様は受け入れ赦していて下さっているもの。心が反応する時、そこから何を気づかせて下さり、解放して下さるのだろう。