2010年09月13日(月)

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」マルコ4:38  


弟子達は湖で嵐に会った。それは、身の危険を感じるほどの強烈な嵐であり、恐怖で右往左往する中、主は、と見ると、こんな嵐の中で眠っておられた。平然と熟睡している主に、弟子たちは「私達が溺れ死んでも何ともないのか」と叫んだ。水が小舟いっぱいに浸水して来て、このままでは舟は沈んでしまう。
水をかき出し、舟を立て直すのに必死だった。

こんな時に寝てないで、何とかして欲しい!と思っての言葉だが、弟子達の態度は、主を主として崇め、へりくだった求めではなかった。「自分の願いを、自分の思い通りに叶えよ!」と、主に命じている自己中心な信仰だ。

私達はどうだろう。自分の願い通りに叶えてくれる神、自分に良くしてくれる神、それを求めて神を崇めているのだろうか。そうであれば、実は自分が主で、自分の願望充足のための神を求めている事になる。神に仕えるのでなく、神に仕えさせようとしている。「主よ、何とも思われないのか」は、「助けるべきだ、助け
て当然、助けろよ」と言う事になる。

罪の性質ゆえ、信仰においても、どこまでも自己中心だ。嵐により、様々な出来事により、こんな自らが砕かれて、自分の信仰の本当の姿を見せられる。そして、気づきが与えられ、正され、変えられて行く。自己中心から神中心の信仰へと、様々な出来事を通して、成長させて下さる。それに気づかせるために、目の前の
事態を通しておられる。
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問題を通して変えられるのはいつも自分でありたい。問題が起こる度にあれこれ思い煩うのは、自分の都合の良い結果が欲しいのではないか、主に信頼していないのではないか、いつも目の前の出来事を通して自分の思いを主に新しく取り扱って頂きたい。