2011年01月13日(木)

「イエスはご自分の肉体の垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」ヘブル10:20


私たちはどうだろう。何かを行おうと決心するが、何度挫折した事だろう。聖書を読んだ方が良い事はわかるが、日々読もうとすると読めない。祈りが大切だとわかるが、何度も失敗する。朝、バタバタして、つい御言葉と祈りをパスしてしまう。

祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。御言葉に従って生きる事の大切さを誰しも知っている。わかっているが、出来ない。しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主が来て下さった事を覚えよう。

もし自分の力で、日々完璧にデボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。あなたも「ねばならない」で、心が縛られているだろうか。主を信じて、休ませて頂くのでなく、返ってしんどくて苦しく、重荷であえいでいるだろうか。ありのまま来なさいと言われているに関わらず、良い行な
いで御前に出ようとするか。

祈りをし聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。罪を犯すと、途端出られなくなる。こういう状態だろうか。これなら、主によってでなく、自分によって御前に出ている。そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、聖所に入る事ができる。今日も、
今のこの瞬間も、自分のわざによってでなく、主イエスゆえに、今のままで御前に受け入れられている。
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助けを必要として「主よ」と拠り頼んでいるつもりが、いつの間にか自分で立てた信仰に縛られている。落胆する時、しんどい時、まだまだ出来るはずと自分に頼っている事に気づけ、助けを求めて主を仰ぎたい。