2011年03月14日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4


主は、私達の願うものを与えて下さる。しかし、何でもかんでも与えて下さるのではない。小さな子供は、料理する母親の真似をしたがる。その子が、包丁を欲しがるからといって、決して与えたりはしない。私たちは、どうしても欲しいと願うが、持つに、時期尚早なものもある。持ったがゆえに、高慢になって、返っ
て破滅するかも知れない。

又、自分の願いを叶えてもらいたいがために、主を自分の喜びとするのではない。それなら自分の欲望のために、神を利用する事になる。自分の人生の主として、主を崇め、主を喜びとして行こうとするなら、日々の生活で、主を第一として行く。その心は、自分の私利私欲ではなく、主に喜ばれたいと願い、主の喜ばれる
事を求めて行く。主の御心を一心に求めるので、必然的に主の心にかなった願いであり、叶えられることになる。

私たちは自我が強く、自分の強い思いがあり、自分の利得を追い、欲を遂げたいものだ。肉は、自分の事でいっぱいだ。自分を喜ばせたい。自分が満足し、自分が賞賛を受けたい。心の奥底を探る時、「誰もみな、自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」に行き当たる。しかし、そこから祝福が始まる。自己中心を認め、自らの無力を認めて行く時に、主を喜ぶ者へと変えられて行く。御霊によってそのようにされ、主をおのれの喜びとする思いが与えられる。
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私達の喜びや頼りとするものは揺れ動き、崩れ去るものではない。今こそ動かない主の十字架にすがり主を喜びとし、主のご愛を少しでも周囲に具体的に現していこう。