2011年07月14日(木)

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9


当時、姦淫は石打ちの刑であった。律法学者やパリサイ人が、姦淫の現場で捕えられた女を人々の真ん中に立たせ、さばきの座に引きずり出した。彼らは主を試して告発する理由を得ようとした。つまり、石打ちにすると言えば、愛を説いていながら、殺害を命じるのかと。もし、石打ちにしないと言えば、律法を守らないのかと、どっちに答えても主を告発できるようにした。

そんな企みに対して、主は、罪の無い者が最初に石を投げよ、と応答された。女を断罪した人々は、その投げた石が、自分に返って来た。彼らは自らの罪がわかったので、投げる事が出来ずに去った。しかし、彼らは主の前から逃げた。彼らは、はっきりと自分の姿を見た。これは天国への第一歩だ。しかし、逃げ去った。ところが女は、逃げなかった。そのままそこにとどまった。

その彼女は、主から全き赦しを受け取った。私達はどうだろう。日ごとに、御言葉に向かう時、自らの姿が映し出される。自分の罪が示される。自分の醜い、汚れた、自我にまみれた姿を見るのは痛い。プライドが非常に傷つく。認めたくない、触れずにふたをして置きたい。私達も逃げるだろうか。逃げないでとどまった女のように、映し出された本当の自分を認めよう。その時に、変えられて行く。何より主に触れられ、主の深い愛を知って行く。
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罪を罪と感じられることが感謝だ。示された自分の姿と向き合い、主がなぜ示してくださったかをそこから学ぼう。逃げるかとどまるか、その後の処し方で私達は大きく変わる。