2011年09月13日(火)

「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」マルコ7:15


我が国では、「性善説」であり、外側から入るものが、人を汚すと思われている。環境が、成育歴が、社会が悪いから、非行に走り、犯罪を犯すと。だから、環境、社会が良くなれば、人間は良くなるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。しかし、聖書は真反対のことを言う。人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯す。幼い子供は嘘をつく。親は嘘をつくように教えた事は一度もない。しかし、子供は必ず嘘をつく。

「義人はいない。ひとりもいない」外側ではなく、環境でなく、人の内側から出て来るものが人を汚す。様々な悩み、争い、衝突、それらは環境の問題ではない。それに関与する人の心から、内側から出て来る問題だ。心に原因があり、心から出る「罪」が人を汚す。罪による。主の十字架の血潮が、その罪を赦し、きよめてくれる。

又、外側から、私たちに入るもの、それが人の悪意や侮辱であれ、私たちを汚すことはできない。自分から出るものだけが、自分を汚す。つまり、人は私たちに何もできない。人の悪意に対して、敵対心や憎悪で反応するなら、罪を犯し、汚す事になる。しかし、主に愛されている事に堅く立ち、その侮辱を憎しみで返さなければ、人は私たちを汚すことはできない。
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外側から来るものではなく自分の内の罪が自分を汚し自分を傷つける。また人を傷つけて行く。心から沸き起こる罪を自分のものと認め、拒否し、主にしっかり付く方を選択しよう。