2012年09月10日(月)

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2 

 
イスラエルは、主が乳と蜜の地カナンに導くと約束して下さったのに、入る事が出来なかった。それは不信仰のゆえだった。導き入れるとの、主の言葉を聞きながら、心を頑なにしたためだ。「もし御声を聞くならば・・心を頑なにしてはならない」のように、御声を聞くなら信仰をもって、受け入れる必要がある。語られた御言葉をないがしろにしているなら、そのままでなく、自分の心も固くなり、ますます頑なになって行く。

私たちはどのように聞いているだろう。主が御言葉を語られた時も、聞く人の心は様々であった。素直に受け入れる人、単なる好奇心だけの人、反抗的な人、傍観者として、他人事のように聞き流す人・・。又、石地のように、喜んで聞くが、自我にぶつかると、自分の思いのほうを通して行くだろうか。そんな心が耕される必要がある。頑なな心が砕かれる時、素直にされる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、主の言葉を、その通りにそのまま受け止め、信じて行く事が信仰だ。

この世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなものとする。私たちは、目に見えないが、御言葉を真実なもの、確かなものとする。そして、その語られた御言葉を、行なってゆくことが大切だ。実行して行く時に、初めて御言葉が身につき、そして豊かな実を結んで行く。私たちはどうだろう。ただ聞いて、通り過ぎているだけだろうか。心して受け止め、目の前の御声に従おう。
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目に見えるものと、神の御言葉はいつも全く違う。御言葉を自分に語られた神の言葉として信じきろうとしなければ、何一つ固い自我は変わらず、同じ問題にいつも苦しむ。今日も目に見える生活の中で、神の言葉を疑わず信じて従おう。