2012年11月13日(火)

「そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません』と言った」マルコ11:33


祭司長、律法学者、長老たちが、何の権威によっているのかと、主に詰め寄ると、主が逆に問いかけられた。「ヨハネのバプテスマは天からか、人からか」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、人からと言えば、群衆はヨハネを預言者だと思っているので、人からどう思われるかが恐い。どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。

結局、真理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われるか、自分の立場を守ることが判断基準であった。時々、祈っているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探ってみよう。態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままにしておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、こっちにもいい顔をし、良く思われたい。どちらも欲しい。

しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。「わかりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端です」「犠牲を払いたくないです」と、ありのままの姿を認めて、「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、御心へと導いて下さる。
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御心を知ろうと御言葉を求めて聖書を読むが、尚も分からない、という経験をする。都合の良い御言葉を求めるあまり「わたしも・・話すまい」と主が言われているのを聞き逃しているのかもしれない。