2012年12月14日(金)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3


弟子たちが、主に、彼が盲目に生まれついたのは、この人か、両親が罪を犯したのかと問うた。私たちには、根深い因果応報の価値観が巣くっている。善い事をすれば報いがあり、悪い事をすればバチが当たる。無意識に、その見方に立って、起こる物事を見ていたりする。ここから犯人捜しが始まる。

私たちも、ふと思いが来ないだろうか。不都合な事が起こると、
「今日は祈ってないからか」「最近、聖書を読んでいないからか」「あの事をサボッたからか」、あの事の、この事の、バチかと思う。しかし、この価値観なら、逆にうまく行けば、自分の行ないが良いから、最近はよく祈って聖書を読んでいるから、人に親切にしたから、ということになる。

これなら、すべては自分の行ないによる事になり、行ないでアップダウンし、それでは平安など、どこの世界の話かになる。私たちは、「何で、何で」と、あのせい、このせいと、どこかに落とし所をつけたくて、犯人捜しをするが、主は、彼のでも、両親のせいでもない、「神のわざがこの人に現れるため」と言われた。

彼自身も、誰のせいと考えて来た事だろう。恨みや苦い思いもあったろう。しかし、主に、全く責められる事がなかった。ましてや、神のわざ、神の栄光が現れるなどと、彼にとってどんなに光栄な事だったろう。あなたにも、目の前の辛い出来事が、神のわざが現れるためと言っておられる。
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自分の側の状態で自分の信仰を支えているかのように思うことがある。喜び、平安がなくなってしまう。神様からの一方的な恵みと、御約束を何度もかみしめよう。