2013年05月14日(火)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23


ある人が、どうしても欲しいものがあった。祈って、切に祈って、主に願った。祈りを積み上げた。しかし、なかなか与えられなかった。絶対に欲しい。尚も、祈り続けた。しかし、どうしても与えられず、その祈りの中で、動機を探られた。自分の事のみで、主のみ思い、主の栄光、主のことが全く無い事に気づき愕然とした。

そして主から、何が何でも奪い取ろうとするような態度、更にそれさえ手に入るなら、主でなくてもよい、恐ろしい心がある事に気づき、心底涙ながらに悔い改め、明け渡した。その時、主は平安を下さった。心が主に触れ、平安で満ちて、もうその事はどうでもよくなってしまった。しかし、その後、そのものが、何と上から与えられたのだった。ただただ驚き、主の御名を崇めるばかりだった。私たちも、しばしば、祈りにおいて、動機がきよめられる必要があるかも知れない。

ある人は、進みたい方面を、周囲から反対された。しかし、自分自身は、主の御心だと信じている。祈りの中で、余りの反対に、反発し、意固地になっている自分に気づかされた。御心だから進むというのは建前で、実は頑なな自我を通している事を示された。心から悔い改めて、進路を委ねた。進むも退くもOKですと、祈った時に、主が門を開いて、御心を成し遂げて行って下さった。
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右でも左でもと主に委ねられないのは何故だろう。祈っていても思い煩い不安になるのは何故だろう。主との交わりの中で、真に自分が求めているものの正体を知ろう。そこからまた新しい祈りが与えられる。