2013年07月14日(日)

「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなっ たら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自 身のうちに塩けを保ちなさい」マルコ9:50


料理に塩は無くてはならないものだ。美味しく味つけする。塩気の
無い料理は、まずくて、食べられたものでない。又、防腐剤にも使
われ、腐敗を防ぐ。主は、私たちは地の塩だと言われ、塩の役割を
願っておられる。家庭や職場、学校で塩の役割を期待されている。

塩けがなくなるとは、どんな姿だろう。御言葉に従うのではなく、
自分のご都合主義で、御言葉を曲げて、自分に合わせる。この世に
うまく合わせ、衝突しそうな時は、御言葉を引っ込める。波風立て
たくない。誰ともうまくやって行こうとする。そのため信仰を出さ
ない。八方美人になってしまう。

問題が起こらないようにしているから、事態はスムーズに行く。し
かし、妥協に妥協を重ねる事になり、何の塩気も無くなってしまい、
証しが立たなくなってしまう。塩が塩けをなくしたら、何によって
塩けをつけるのかとあり、どうしようもなく、何の役にも立たなく
なる。

又、塩が強過ぎると、あわれみも愛も無い律法主義になってしまう。
完全に正しいのだが、そこに愛が無いと、人を苦しめ、自分も苦し
くなる。相手に要求し、相手を責めて裁いて行き、自分も常に基準
に達する事はないので、苦しいばかりだ。

そこに愛がないので間違っている。御霊に従って歩む時、それは愛
の歩みであり、且つ、自然に塩けのある歩みとされる。自分を主に
渡して、御霊に導かれて歩もう。

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御霊に導かれて生きて行く時、平安や喜びがあり、生き生きと生き
て行ける。その時、心に塩けが与えられている。塩けを保って歩め
る。御霊の示しに、一つ一つ従って行こう。今、目の前に示された
ことに従おう。