2013年09月12日(木)

「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである」創世記26:12


「この国にまた飢饉があった」とあり、飢饉のまっただ中で、イサクは種を蒔いた。土地は荒れ果てていて、作物が育つどころか、どんどん枯れて行く状況だ。収穫など期待できない。全然雨の降らない中での種蒔きだ。外面的に見ると、全く不可能な状況であった。なぜ、何のために蒔くのか。蒔いても種が無駄なだけではないか。更に貴重な種をも失う事になってしまう。

普通なら蒔かない。しかし、あえてその地に種を蒔いた。イサクには神を信じる信仰があったからだ。見た目の状況ではなく神を信じた。そうでなければ、種を蒔くことなど出来ない。見えるところは、種も無駄、労力も無駄だ。しかし、結果的には、百倍の収穫を得た。なぜ百倍の収穫を得たのか。その理由が「主が彼を祝福してくださったのである」とある。

ただただ主のゆえだ。更にイサクは富み、ますます栄えて、非常に裕福になったとある。飢饉の中にあって、イサクは栄えた。飢饉の中でイサクを栄えさせた、同じ主が、私たちと共におられる。私たちも信仰の種、言葉の種を蒔くことが大切だ。どんな言葉を蒔いているだろう。信仰の言葉だろうか、不信仰の言葉だろうか。「飢饉の中で種を蒔く」、「主にはできる」「主に不可能は一つもない」。困難の中で、信仰の言葉を蒔こう。豊かな刈り取りを見る。
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御言葉の学びを重ねても、実際の生き方において信仰の種や言葉を自分のものにしているだろうか。目に見えるものに反応せず主に呼応し、周囲の人に、また自分自身に信仰の種を蒔き続けよう。