2015年05月14日(木)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテロ2:19




職場で、理不尽な扱いを受けて、苦しんでいる人がいた。ある人が
慰めようと、「辛かったですねえ」と声をかけた。するとその人は
「はい、こんなに祈った事はありません。自分は悪くないのにと、
悔しさで一杯で。そんな中で、主の十字架が迫りました。

完全に正しい方が、十字架にかかる必要の無い方が、あの十字架で
苦しまれ、命を捨てられた事に目が開かれました。主の姿を通して
自分の姿が見えました。その時、主にお委ねできて、今、全く平安
なんです。もう感謝しかありません」と答えた。

彼には言い分があり、正当な主張があった事だろう。しかし、その
人は信仰に立っていた。自分で自分を守ろうとせず、又、自分で状
況を動かそうとせず、すべてを正しく導き、裁き、成し遂げられる
方にお任せしたのだ。ダビデも、サウル王から不当な扱いを受けた。
サウルの一方的な激しい妬みにより、命をつけ狙われた。

槍をダビデを目がけて投げつけられた事もあり、どこまでも追っ手
をかけて追撃された。ヨセフも、エジプトで主人から厚意を受けた
が、その主人の妻により、全く身に覚えの無い無実の罪で投獄され
た。しかし、ダビデもヨセフもそんな中で、反撃するので無く、御
父に自らを委ねて行った。そして、主は、ふさわしい時に、ふさわ
しい解決を与えられた。
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不当な仕打ちを受けたら、肉は納得できないと騒ぐ。不平をもらし
たり仕返ししたいが、それでは主にある良心の咎めがくる。全てを
ご存知の主に頼み、悲しみをこらえるなら主が喜んでくださる。