2016年02月12日(金)

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」マタイ12:7



パリサイ人や律法学者が出て来るが、当時の彼らは、律法を形式
的に懸命に守り、細かい戒めまで実行した。又、御言葉によらない、
人間による言い伝えも多く作り、それも守っていた。表面上守って、
自らを良しとしていた。だが動機はどうだろう。又、それを人にも
強いて、行なわない人々を、容赦なくさばいていた。

つまり、形式的な事では、心はどうにもならなかった。心の中に渦
巻く裁き、妬み、高慢、憎しみは、逆に更に増幅して行った。残念
ながらそこに愛も喜びも無かった。私たちもどうだろう。御言葉を
学び続けるのだが、自分の思い、考えが強いので、愛なる神の心を
知ることができない。正しいのだが、愛が無いという状況に陥る。

パリサイ人は、律法は主キリストによって成就されるという事が全
く見えず、主を拒み、否定し、十字架にまで追いやった。自分は正
しいと思っているが、大きな過ちを犯した。律法は、私たちの罪を
明らかにし、私たちをキリストへ導くための養育係とある。律法に
より、自分はダメな人間と知り、自分がいかに罪深いかを知り、主
が必要であることを認め、キリストを信じる信仰へと導かれる。

律法自体は聖で、正しく良いものだ。律法によって初めて罪がわか
る。問題は、律法ではなく、心にあった。頑なで、強情な心は、主
が見えない。人が神に認められる、唯一の道が、信仰によってだ。
ただただ神の恵みとあわれみによって受け入れられる。何という幸
いだろう。神のあわれみは満ち満ちている。
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内にある弱さ醜さは、外側のように自分で整えられない。主のあわ
れみのみが罪を赦し、清くしてくださる。自分で清めているような
高ぶりがないか。気付かせてもらおう。