2016年04月13日(水)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩編139:1



私たちが、人の言葉にカチン!と来て、怒りを感じる時がある。し
かしそれが知らない外国語ならどうだろう。意味がわからないので、
感じない。という事は相手というより、その言葉に反応する、自分
の内側に何かがあるという事になる。他人の言葉よって、自分の感
情がコントロールされていることになる。

その言葉が、自分の内の何に触れるのか、何に反応するのか、祈り
つつ御霊に探っていただこう。それは有益で、成長へとつながる。
自分のプライドに触れるのか、何かの恐れがあるのか、傷があるの
か、何らかの劣等感か。内側の何かに触れて、怒りが湧いたことに
なる。又、誰かがほめられた時に、自分がけなされたと感じたり、
落ち込むなら、比較の価値観が根にある。

人が上がれば、自分が下がり、人が不評なら、自分が上がる。シー
ソーだ。本来、その相手は自分と何の関係も無い。又、素の自分を
隠して良い人を繕ってしまう。なぜ良い人を演じるのだろう。そこ
に不安や恐れがある。人に良く思われたい、その底に人に愛された
い心がある。良い人でなければ愛されないのではとの価値観だ。

主の愛に立ち返る時だ。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わ
たしはあなたを愛している」ここに救いがある。「感謝します」と
主の愛を受け取り、十分味わうことだ。主の愛で満たされる時に、
人を気にする思いから解き放たれて行く。
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なぜ心配があるのか、いらつくのか、落ち込むのか、呼応する心を
よくみつめて、それを祈りに持っていこう。本当の自分を知ってお
られる方に心探られるとき、新しい祈りの課題も与えられる。