2016年05月14日(土)

「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この 一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに 前のものに向かって進み・・神の栄冠を得るために、目標を目ざして 一心に走っているのです」ピリピ3:13



「後ろのものを忘れ」とあるが、私たちは覚えるべき恵みを忘れ、
忘れるべき過去を覚えて縛られてしまう。過去の失敗にくよくよし
ているだろうか。思い出しては後悔し、嘆き、あの時はああで、こ
の時はこうでと、繰り返し思い悩む。

又、過去の良かったこと、過去の栄光が忘れられない。今が惨めで
仕方がない。過去のあの時に、この時に戻れたらと、これもくよく
よ考える。思い悩み、煩うなら、「今」「現在」を生きることがで
きない。大切な「今」を流して、捨ててしまう事になる。過去の罪、
恨み、つらみを捨て去るなら、現在を生きる事ができる。

又、パウロには「人間的なもの」きっすいのヘブル人で、熱心なパ
リサイ人・・地位、血筋、家柄それらも後ろのものだった。パウロは、
神の栄冠を得るために、目標目指して、ひたすら走っていると。パ
ウロの目標は、私の主であるキリスト・イエスを更に知ることだ。

信仰人生は、マラソン競技のようで、マラソンはひたすらゴールを
目指して走る。後ろを振り返り〃していたら、一心に前に向かって
走れない。ややもすれば、もう十分と、多くの恵みを頂いたと、そ
こで止まってしまう。しかし、パウロはどれだけ恵まれても、更に
主を知りたいと、主の姿に造り変えられたと願った。どこまでも成
長の途上だと。御霊によって、御霊に導かれて、更に主を知り、成
長へと向かおう。

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「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえて下さっ
た」とあり、主が捕らえていて下さっているから、どんな中でも歩
んで行ける。今、後ろを見ていたら、赦されたのであり、目を前に
向けて歩もう。