2017年02月11日(土)

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、 もう一人は取税人であった」ルカ18:10 



パリサイ人も取税人も、どちらも宮に来た。どちらも神の御前に立
って、祈った。パリサイ人は神に感謝を献げたのであるが、じかし
実際は神の御前に立っていない。見ているのは神ではなく、「他の
人々」であり「取税人」であった。パリサイ人は、ゆする者でなく、
不正をせず、姦淫もしない、正しい人であった。しかし、外側立派
でも、心の中は誰しも罪だらけだ。

「他の罪深い人々のようではないことを感謝します」と、あの人よ
り、この人より自分はましと、人を見て、人との比較に自分を置く
時、自分がどんなに罪深いかが見えなくなる。逆に優越感でいっぱ
いになり、人を見下して行く。光である神の御前でない限り、罪は
見えない。光に照らされて初めて、自分の罪がわかる。

取税人は、目に見える、自他共に認める罪人であった。税金を不正
に取り立てていた。遠く離れて立ち、目を天に向けようともしなか
った。人との比較など思いも及ばない。神の御前にいて、ただただ
自分の罪が見えて、自分の罪深さが見えるばかりだった。パリサイ
人も目に入らず、「こんな罪人の私をあわれんでください」と神に
祈った。

「こんな罪人の私」と、ただ神のあわれみを求めた。この取税人の
祈りが聞かれ、彼は罪が赦され、義と認められて、家に帰った。何
と平安と喜びに満たされた事だろう。私たちが正しく生きることが
できるのは、主と共にあることによる

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自分で自分の姿はわからず、人との比較でもわからず、ただ主の御
前に立つ時、自分の本当の姿が照らされる。御霊の光のもとでは、
人など思いも及ばず、自分の罪だけが見える。その罪が赦され義と
される喜びはいかばかりだろう。