2017年07月14日(金) 「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません」マルコ4:19
「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません」マルコ4:19
種まきのたとえで、ある種はいばらの地に落ちた。道ばたに落ちた 種は、地が固く、種をはじき返してしまい、植わることがなかった。 その種は、サタンが奪い去ってしまった。土の薄い岩地の種は、薄 い土があり、芽を出した。が、下へ下へ根ざそうとすると、岩にぶ つかり根ざせない。岩は自我だ。自我を砕いて従おうとしないなら、 試練が来た時に枯れてしまった。 それに引き替え、いばらの中に落ちた種は、一応芽が出て伸びた。 この人は主を受け入れ、御言葉に教えられ歩んでいた。しかし、同 時にいばらも伸びて来て、その成長が阻まれてしまった。そのいば らとは、世の心づかい、富の惑わし、色々な欲望だ。それらが心に 巣くい、御言葉をふさいでしまったと。 御言葉に従って歩み始めたが、実を結ぶまでに至らなかった。その 地に、元からいばらもあり、成長と共にいばらも出て来た。誰しも、 思い煩いや、富の誘惑や、様々な肉の欲望がある。富自体、楽しみ 自体が悪いのではない。富も、楽しみも神が与えて下さるものだ。 「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」だ。 しかし、神以上に執着してしまう心が問題だ。神よりも、自分の心 配な事柄、富、快楽に思いが奪われる時、実を結ぶことができない。 私たちの優先順位はどうだろう。神よりも執着するものがあると、 御言葉をふさぎ、結実できないと。枯れてしまうので要注意だ。自 らの、心の大切なものは何だろう。それぞれが正しい位置に置かれ る時、平安と喜び持って生きて行ける。 ------------- 何故ストレートに御言葉に従えないのだろう。御言葉を受けて決心 してもあっという間に取り越し苦労が襲う。いのちの種をふさぐ、 いばらの実態は何か、見過ごさずきちんと向き合ってみよう。