2017年09月13日(水)

「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った」ルカ10:29



律法学者が、主に質問をした。「何をしたら永遠のいのちを自分の
ものとして受けられるのか」と。だが、「ためそうとして」とあり、
真摯に質問したのでなく、罠であり、試すためであった。この学者
は答えがわかっている。律法の専門家なのだから。すると主は、律
法には何と書いてあるかと、逆に問われた。

そして「あなたはどう読んでいるか」と。あなたはどのように理解
し受け止めているか、あなたの現実問題としてどうなのか。聞き従
っているのかと。学者は、神を愛し、隣人を愛すること・・正しい
答えをした。そこで主は、では、その事を実行せよと。すると学者
は「自分の隣人とは誰か」と質問した。

その動機が「自分の正しさを示そうとして」であった。自分を正当
化しなければならないという事は、やましいものがあって、取り繕
わなければならないという事だ。すべての隣人を、愛せない事がわ
かっていたのかも知れない。当時のユダヤ人は同胞は隣人で、外国
人は隣人ではなかった。同胞なら愛せるが、それ以外は愛せない。

ありのままを主に告げたらよかったが、自分を守りたかった。そこ
で主は、敵を助けたサマリヤ人の話をされた。私たちも、すぐに自
分を守ろうと自己正当化してしまう。そしてそれに気づかない。御
言葉すら自分を正当化するために用いてしまう。

しかし御霊が気づきを与えられる。心の闇を照らされる。そしてど
んな時も、決して変わらず愛されている。その愛の中で、内側を照
らされつつ、成長が与えられて行く。
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誰も御言葉を守り続けられない。だから主の十字架が必要だと気づ
けることが感謝だ。頭の理解と現実はいつも違ってしまう、その弱
さを認めて成長していきたい。