2018年02月11日(日)

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたと おりになると、私は神によって信じています」使徒27:25


パウロが囚人としてローマへ護送される途上に、船はクレテの良い
港に着いた。人々は、この港よりもっと良いピニクスまで進んで、
そこで冬を越そうとの意見だった。しかしパウロは、祈りの中で主
から示され、この航海はもう危険であり、命にまで危害が及ぶと強
く反対した。

「しかし百人隊長は、パウロの言葉よりも、航海士や船長のほうを
信用した」の通り、人々はパウロの言葉を信じる事なく、百人隊長
も、パウロより経験のある航海士や船長の言う事を信用した。それ
で、その言う事に従い出帆した。するとパウロの言葉の通りに、暴
風に巻き込まれてしまった。

私たちも信仰生活で、常に二つの声が聞こえて来る。二つの思いが
ある。一つは御言葉を通して聞こえて来る神の御声であり、もう一
つは自分の経験や知識、自分の思い、判断から聞こえて来る肉の声
だ。それは世の価値観に基づいていて、見える状況、常識から判断
する声だ。目に見えるところの方が正当に見える。それは又、肉の
願望、欲望と合致しているのでしっくりくる。

結局のところ、どちらの声を選択するかにかかっている。彼らは暴
風に会い、手立てなく絶体絶命に陥った。絶望的状況になった。そ
の時初めて、人々はパウロの言葉に思いが至った。パウロは、告げ
られた通りになると人々を励まし、紆余曲折の末、彼らは全員まさ
にパウロの言葉の通りに命が助けられた。今、あなたも二つの声が
聞こえているだろうか。従うべきは主の御声だ。

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目に見えるこの世界の常識と、主の示しの言葉が真逆である場合が
ある。世の価値観、肉の思いは、理に適っていたりする。そちらの
方が正しく見えてしまうが、主の言葉のほうに従って行く時、みわ
ざを見、主の栄光が現れる。