2018年04月13日(金) 「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし・・私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように」Tサムエル3:17
「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし・・私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように」Tサムエル3:17
ハンナの切なる祈りによって、産み出されたサムエル。彼は、祭 司エリのもとで養育された。ある時、サムエルは主から呼ばれた。 エリに呼ばれたものと思い、エリのもとに行く。それは主の御声 だと、次にはエリに教えられた通りに「お話しください。しもべ は聞いております」と答えた。 すると、その最初のメッセージは、何とエリの家への裁きであった。 「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事を していながら戒めなかった罪による」と。自分の師であるエリに伝 え難い、厳しい言葉であった。サムエルはエリに語ることを恐れた。 しかしエリにその通りに告げるよう言われ、主の言葉をそのまま伝 えた。 預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に語る人のこ とだ。どんなに辛い、痛い言葉であろうと、その通りに語らねばな らない。預言者として立てられて行くサムエルへの最初のテストで あったかも知れない。私たちはどうだろう。口では、「お話下さい。 しもべは聞いております」、喜んで聞きますと言いつつ、だが罪の 指摘や、醜い姿を照らされる痛い言葉、自分の願いと異なる言葉は 聞かずに、耳をふさぐだろうか。 痛い言葉こそが必要な言葉であり、恵みの言葉だ。そこでこそ自分 が変えられて行く。逃げず、避けずに耳を傾けよう。聖められ成長 して行ける。「愛している」「共にいる」「必要を満たす」そんな 言葉だけが「恵まれる」と思っていないだろうか。 -------------- 聞く態度は整っているだろうか。耳の痛い言葉には耳をふさいでし まいたいが、生きている限り学び変わり続けたい。耳の痛い御言葉 こそ流さず立ち止まろう。